北町奉行所跡-庶民の暮らしを守った名奉行「遠山の金さん」

JR「東京」駅から徒歩で直ぐのところにある北町奉行所跡の案内板。北町奉行といえば、名奉行でお馴染みの遠山金四郎を思い浮かべる人も多いはず。彼は、天保の改革を主導した老中・水野忠邦と対立し、庶民の暮らしを守った名奉行として知られる。

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北町奉行所とは

老中の支配下にあり、江戸市中の行政・司法・警察の職務を担っていた組織。

北町奉行所の歴史

町奉行所のはじまり

江戸の市政を担当した奉行所が、奉行の役宅として公的に置かれたのは寛永8年(1631)からです。奉行所は「御番所」と呼ばれ、18世紀初めに一時中番所が置かれたほかは、北御番所と南御番所のふたつが幕末まで続きました。(後略)
引用:東京都公文書館ホームページ

「北町」と「南町」の呼び名は相対的な位置関係による

町奉行所は、中町奉行所(元禄15年(1702)~享保4年(1719))を除き、長い期間、北と南の二つの奉行所が置かれていた。その呼び名は単に奉行所の所在地を表し、北にある方を北町奉行所、南にある方を南町奉行所と呼び、管轄地域は同一で、月番制により交代で江戸の市政を担っていた。

南北の両町奉行を務めたのは名奉行「遠山金四郎」だけ

遠山金四郎(遠山左衛門景元)は天保11年(1840)から天保14年(1843)まで北町奉行を務め、弘化2年(1845)から嘉永5年(1852)までは南町奉行を務めている。

町奉行所の廃止

慶応4年(1868)、町奉行所は廃止となり、名称が市政裁判所と変更されて業務が引き継がれた。

 

遠山金四郎が今日まで名奉行として人気を博している理由

遠山金四郎は北町奉行在任中、庶民の暮らしを脅かす厳しい倹約政策を打ち出した老中・水野忠邦と対立。庶民の娯楽である芝居小屋の廃止を阻止するなど、庶民の暮らしを守り、江戸の衰退防止に努めたことなどがあります。

 

現在

北町奉行所跡

狭い通路に設置されている案内板

北町奉行所跡の案内板が設置されているのは、JR東京駅八重洲口北側にある高層ビル「丸の内トラストタワーN館」東側の通路になる。そこは大きなビルに囲まれた狭い通路で人通りは少ない。


北町奉行所跡案内板

東京都指定旧跡 北町奉行所跡

この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。(後略)
引用:北町奉行所跡案内板

平成12年からの発掘調査

北町奉行所の遺構は大部分が破壊され、殆ど痕跡を残さない状況だったが、わずかに道路と屋敷を隔てる石組みの溝と上水木樋などが確認されている。


北町奉行所北東角の石組みの溝(出典:北町奉行所跡案内板)

平成12年の発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。ここに復元した石組みの溝は、ここから西方約30mの地点で発見された、屋敷北東角の道路との境を巡る下水溝の一部です。
引用:北町奉行所跡案内板

再現された江戸城外掘の石垣

北町奉行所跡案内板の南側には、江戸城外堀をイメージした石垣が見られる。石垣の一部は、鍛冶橋門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣が使用され、ほぼ当時の形で積み直されている。


江戸城外堀をイメージした石垣

北町奉行所の東方には、寛永13年(1636)に築かれた江戸城外堀がありました。現在この地域の外堀は、常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残りますが、東京駅周辺は昭和30年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名前などに名残を留めている程度です。
引用:江戸城外堀の石垣案内板

 

ココを歩いてみて!

北町奉行所の痕跡は見当たらない

ここには、かつて呉服橋門内に置かれた北町奉行所がありましたが、現在はJR東京駅の一部と高層ビルになっています。周囲にあった外堀は埋め立てられ、呉服橋門と呉服橋は撤去済です。庶民の暮らしを守るために、北町奉行・遠山金四郎が活躍した北町奉行所跡を歩いてみましたが、その痕跡は見当たらず、一枚の案内板が歴史を伝えているのみでした。

 

アクセス情報

  • 名称
    北町奉行所跡
  • 住所
    東京都千代田区丸の内1-8
  • アクセス
    JR「東京」駅日本橋口から徒歩2分(案内板まで)