JR「東京」駅から直ぐのところに、北町奉行所跡の案内板が置かれています。北町奉行といえば、名奉行でお馴染みの「遠山金四郎」を思い浮かべる人が多いはず。彼は天保の改革を主導した老中・水野忠邦と対立し、庶民の暮らしを守った名奉行として知られています。
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ココに北町奉行所がありました!
北町奉行所跡の案内板が置かれているのは、「丸の内トラストタワーN館」東側の植え込みの中です。
北町奉行所跡案内板 ▼東京都千代田区丸の内1-8
MAP 北町奉行所跡案内板
アクセス(案内板まで)
- JR「東京」駅日本橋口から徒歩2分
北町奉行所とは
呉服橋門内の北町奉行所
文化3年(1806)~幕末までは呉服橋門内
老中の支配下にあり、江戸町人地の行政・司法・警察などの職務を担っていた組織です。
東京都指定旧跡 北町奉行所跡
この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化3年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。(後略)
引用:北町奉行所跡案内板
町奉行所の歴史
町奉行所の始まり
公的に置かれたのは寛永8年(1631)から
初期の頃は、町奉行に任ぜられた者の役宅での執務でしたが、その後、幕府により、常盤橋門内に北町奉行所、呉服橋門内に南町奉行所が置かれます。
江戸の市政を担当した奉行所が、奉行の役宅として公的に置かれたのは寛永8年(1631)からです。奉行所は「御番所」と呼ばれ、18世紀初めに一時中番所が置かれたほかは、北御番所と南御番所のふたつが幕末まで続きました。(後略)
引用:東京都公文書館ホームページ
北と南の呼称
管轄地域は同一
中町奉行所(元禄15年(1702)~享保4年(1719))を除き、町奉行所は、北と南の二つの奉行所が置かれました。その呼称は単に奉行所の所在地を表し、北にある方が北町奉行所、南にある方が南町奉行所です。
月番制
北と南で1ヶ月ごとの交替制
月番の奉行所は、大門を開けて町人からの訴訟の受付を行い、非番の奉行所は、大門を閉めて前月受理した訴訟等の処理を行っていました。
町奉行配下の与力・同心
八丁堀の旦那
町奉行の配下には、与力と同心の存在があります。与力は町奉行の補佐役で、同心は与力の元に配属されて、庶務や見回りなどの警備を担当。与力・同心は、八丁堀に組屋敷があったことから「八丁堀の旦那」と呼ばれていました。
現在、八丁堀(東京都中央区)には、与力・同心の組屋敷があったことを伝える案内板が立っています。
「八丁堀の与力・同心の組屋敷跡」案内板 ▼東京都中央区八丁堀3-17
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。(後略)
引用:八丁堀の与力・同心の組屋敷跡(中央区教育委員会)
町奉行所の廃止
慶応4年(1868)、町奉行所は廃止となります。名称が市政裁判所に変わり、業務が引き継がれました。
名奉行「遠山金四郎」
北町奉行で最も有名な人物
北町奉行といえば、時代劇「遠山の金さん」で知られる遠山金四郎(遠山左衛門景元)を思い浮かべる人が多いでしょう。彼は、天保11年(1840)から天保14年(1843)までの期間に北町奉行を務めています。さらに、弘化2年(1845)から嘉永5年(1852)までの期間は、南町奉行を務め、両町奉行を務めたのは遠山金四郎だけです。
遠山金四郎が今日まで名奉行として人気を博している理由
遠山金四郎は北町奉行在任中、庶民の暮らしを脅かす厳しい倹約政策を打ち出した老中・水野忠邦と対立。庶民の娯楽であった芝居小屋の廃止を阻止するなど、庶民の暮らしを守り、江戸の衰退防止に努めたことなどがあります。
ココを歩いてみて
北町奉行所の面影は見当たらない
呉服橋門内にあった北町奉行所跡を歩きましたが、復元された石組みの溝があるくらいで、北町奉行所を思わせるものは見当たりませんでした。呉服橋門、呉服橋も今はなく、交差点に名を残すのみです。少しわかりにくいところに置かれている案内板ですが、北町奉行所があったことを今に伝えています。
★MAP 北町奉行所跡
Googleマップ