京橋跡-日本橋から東海道を通って京都へ向かう最初の橋

日本橋と同時期に架けられたといわれる、名橋「京橋」。橋の付近に設けられた「竹河岸」や「大根河岸」は多くの人で賑わったところ。歌川広重の浮世絵では、江戸時代末期の京橋と竹河岸の様子が描かれています。

京橋跡

残された京橋の親柱

東海道(現・中央通り)と交差する京橋川に架けられていた京橋。既に川は埋め立てられ、橋も撤去されていますが、「石造の親柱」2基と「石およびコンクリート造の親柱」1基が残され、京橋の歴史を今に伝えています。


京橋の親柱の一つ(銀座一丁目交番横)

京橋大根河岸青物市場跡の記念碑

かつて京橋北詰の西河岸には野菜の荷揚げ市場があり、現在は記念碑が置かれています。そこは大根の入荷が多かったことから「大根河岸」と呼ばれていました。


京橋大根河岸青物市場跡に建てられた記念碑


京橋跡周辺

 

京橋の歴史

京橋のはじまり

日本橋と同時期に架けられた名橋

京橋の創架については諸説ありますが、慶長8年(1603)の創架とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられています。

橋名の由来

日本橋から東海道を通って京都方面へ向かう最初に渡る橋だったことから。(諸説あり)

天下普請で開削された京橋川と河岸の存在

慶長年間に行われた最初の天下普請で、江戸城外濠と共に開削された京橋川。川沿いには京橋川の水運を利用した河岸が続いていました。

竹河岸

京橋北詰の東河岸には竹商人が多く集まり、竹河岸が設けられていました。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏(いかだ)に組んで送ったものであったといわれています。

大根河岸(青物市場)

京橋北詰の西河岸は、青物市場が立ち、大変賑わったところです。数寄屋橋辺りに形成された青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したのがはじまり。この河岸では大根の入荷が多かったことで「大根河岸」と呼ばれました。大正12年(1923)の関東大震災後に中央卸売市場が築地に完成したことで、昭和10年(1935)に移転しています。

京橋の撤去

昭和38年から昭和40年にかけての京橋川の埋め立て工事に伴い、橋は撤去。その際、「石造の親柱」2基と「石およびコンクリート造の親柱」1基が残されました。

 

浮世絵から辿る京橋の歴史

名所江戸百景「京橋竹がし」

 京橋と竹河岸の夜景

京橋北詰の東河岸には多くの竹商人が住み、商いをする「竹河岸」が設けられていました。浮世絵の中では満月の夜に荷物を積んだ川舟、京橋を渡る人達、そして沢山の長い青竹が立て掛けられた竹河岸の様子が描かれています。(左が日本橋方面、右が新橋方面)


名所江戸百景「京橋竹がし」
歌川広重 (出典:国立国会図書館)

  

 かつての面影はなし

竹河岸のあった方向に見えるのは、コンクリートの建物と上空を覆う東京高速道路。


「京橋竹がし」の今

愛称名が付けられた通り

京橋川跡地の上空を覆っている東京高速道路の北側には、河岸の名残を感じさせる通りがありました。外堀通りから中央通りまでが「京橋大根河岸通り」、中央通りから昭和通りまでが「京橋竹河岸通り」です。

 

ココを歩いてみて

京橋と京橋川の位置関係

現在、橋と川はありませんが、橋の親柱が3ヶ所残され、川が流れていたところの上空を東京高速道路が覆っているので、かつての京橋と京橋川の位置関係がよくわかります。

日本橋から徒歩で約15分の距離

日本橋を起点とした東海道(現・中央通り)が街の中心を走り、京橋の親柱はこの通り沿いにあります。かつては大勢の人がここにあった京橋を渡り、京都方面へ向かっていたようです。日本橋から京橋跡までを歩いてみると約15分の距離でした。この先は、銀座、新橋となります。

 

アクセス情報

京橋跡

  • 所在地
    東京都中央区銀座1丁目2番先・11番先/京橋3丁目5番先
  • 交通
    東京メトロ銀座線「京橋」駅2番出入口から徒歩2分
    東京メトロ有楽町線「銀座一丁目」駅7番出入口から徒歩3分