日本橋と同時期に架けられたといわれる、名橋「京橋」。橋の付近に設けられた「竹河岸」、「大根河岸」は多くの人で賑わったところ。歌川広重の浮世絵では、江戸時代末期の京橋と竹河岸の様子が描かれています。
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ココに「京橋」がありました!
中央通りと東京高速道路が交差する場所に「京橋の親柱」と案内板が見られます。
京橋の親柱と案内板▼東京都中央区銀座1丁目2番先
■:京橋の親柱(3基)▼東京都中央区銀座1丁目2番先・11番先/京橋3丁目5番先
アクセス(案内板まで)
- 銀座線「京橋」駅3番出口から徒歩2分
- 有楽町線「銀座一丁目」駅7番出口から徒歩2分
京橋とは
京橋川に架けられていた格式高い橋
橋名の由来
日本橋から東海道を通って京都方面へ向かう際に、最初に渡る橋だったことに由来。(諸説あり)
欄干に擬宝珠が付いた格式高い橋
幕府が重要な橋と位置付けていたことを示しています。
京橋と京橋川の歴史
京橋のはじまり
慶長8年(1603)の創架とされる「日本橋」と、ほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられています。(諸説あり)
京橋川の河岸
慶長年間に行われた最初の天下普請で、江戸城外濠と共に開削された京橋川。京橋周辺は、商人、職人が多く暮らす町人地で、京橋川沿いには水運を利用した河岸が続いていました。
・竹河岸
京橋北詰の東河岸には竹商人が多く集まり、竹河岸が設けられていました。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏(いかだ)に組んで送ったものであったといわれています。
・大根河岸(青物市場)
京橋北詰の西河岸は青物市場が立ち、大変賑わったところです。数寄屋橋辺りに形成された青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したのがはじまり。この河岸では大根の入荷が多かったことで「大根河岸」と呼ばれました。大正12年(1923)の関東大震災後に中央卸売市場が築地に完成したことで、昭和10年(1935)に移転しています。
京橋大根河岸青物市場跡に建てられた記念碑
京橋川の埋め立てと京橋の撤去
昭和38年から昭和40年にかけての京橋川の埋め立て工事に伴い、橋と川は姿を消しましたが、「石造の親柱」2基と「石及びコンクリート造の親柱」1基が残されています。
残された「京橋の親柱」(北詰東側)
残された「京橋の親柱」(南詰東側)
残された「京橋の親柱」(南詰西側)
浮世絵から辿る京橋の歴史
名所江戸百景「京橋竹がし」
京橋と竹河岸の夜景
京橋北詰の東河岸には多くの竹商人が住み、商いをする「竹河岸」が設けられていました。浮世絵の中では満月の夜に荷物を積んだ川舟、京橋を渡る人達、そして沢山の長い青竹が立て掛けられた竹河岸の様子が描かれています。(左が日本橋方面、右が新橋方面)
名所江戸百景「京橋竹がし」
歌川広重 (出典:国立国会図書館)
かつての面影はなし
浮世絵と同じ方向に見えるのは、コンクリートの建物と上空を覆う東京高速道路。
銀座通り口交差点から(中央通り)
愛称名が付けられた通り
京橋川跡地の上空を覆っている東京高速道路の北側には、河岸の名残を感じさせる通りがあります。外堀通りから中央通りまでが「京橋大根河岸通り」、中央通りから昭和通りまでが「京橋竹河岸通り」です。
ココを歩いてみて
京橋と京橋川の位置関係
既に橋と川はありませんが、橋の親柱が3基(3ヶ所)残され、川が流れていたところの上空を東京高速道路が覆っているので、かつての京橋と京橋川の位置関係がよくわかります。