一日に千両の取引があるといわれた「日本橋魚河岸」。江戸で最も活気のある場所の一つだった魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに築地市場へと移転。日本橋での300年余りの歴史に幕を下ろしましたが、周辺には今も魚河岸の名残を感じさせる老舗店が見られます。
歴史を今に伝える乙姫広場
地下鉄「三越前」駅B6出入口を出ると、直ぐ左手にある「乙姫広場」。「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた記念碑と案内板、そして乙姫の像が日本橋魚河岸の歴史を今に伝えています。
乙姫広場
日本橋魚河岸の歴史
日本橋魚河岸のはじまり
幕府に納めた魚の余りを日本橋のたもとで売り出す
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。(後略)
引用:日本橋魚河岸跡案内板(中央区教育委員会)
日本橋魚河岸の繁栄
一日に千両の大金が動いた魚河岸
魚屋の屋台小屋が並ぶ魚河岸には、水運を利用して各地から沢山の魚介類が集められ、大変な賑わいを見せていました。大きく発展した魚河岸は一日に千両の取引があるといわれ、魚河岸の旦那といえば、江戸歌舞伎の最大のスポンサーでもあったようです。
日本橋魚市繁栄図 国安(出典:国立国会図書館所蔵)
日本橋川の桟橋に集まる沢山の平田舟
大正期の日本橋魚河岸の様子(出典:日本橋魚河岸跡案内板)
(前略)江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。(後略)
引用:日本橋魚河岸跡案内板(中央区教育委員会)
筑地市場へと移転
移転問題
明治時代に入り、江戸時代から続く施設や販売手法による衛生面の問題、都市開発に必要なインフラ整備などで、当時の東京府から移転を命じられていた魚河岸。しかし、折り合いがつかず、議論は長い年月を費やすこととなり、大正時代に入ってしまいます。
移転に決着をつけた関東大震災
日本橋魚河岸は大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的な被害を受け、その後、芝浦での仮設市場を経て、築地市場へと移転。東京都卸売市場へと発展していきます。
現在の日本橋魚河岸跡
首都高速道路の柱ばかりが目につく、現在の日本橋川の様子。桟橋に横付けされた沢山の平田舟の面影はありませんが、周辺には日本橋魚河岸の名残を感じさせる老舗店が残っています。
日本橋(橋)の上から見た現在の日本橋川の様子
魚河岸の名残を感じさせる老舗店には、鰹節の「にんべん」(1699年創業)、海苔の老舗「山本海苔店」(1849年創業)などがあります。
日本橋魚河岸跡から徒歩直ぐの「山本海苔店」(日本橋室町1丁目)
ココを歩いてみて
日本橋にあった魚河岸を伝えていく日本橋の老舗店
江戸時代からの伝統を受け継ぎながら、新しいものを取り入れ、日々進化する日本橋。次々と新しい大規模な商業施設が誕生する中でも、江戸時代から続く老舗店はそれよりも大きく感じられました。江戸時代からの伝統を持つ日本橋の老舗店は、日本橋にあった魚河岸のことを、これからも伝えていくことになるでしょう。
アクセス情報
日本橋魚河岸跡(乙姫広場)
- 所在地
東京都中央区日本橋室町1丁目8番 - 交通
地下鉄半蔵門線/銀座線「三越前」駅B6出入口から直ぐ
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