日本橋魚河岸跡-江戸初期から大正まで日本橋にあった魚市場

かつて日本橋には、一日に千両の取引があるといわれた巨大な「魚河岸」がありました。江戸で最も活気のある場所の一つだった魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに築地市場へと移転。日本橋での300年余りの歴史に幕を下ろしたが、今も魚河岸の名残を感じさせる老舗店が見られます。



乙姫広場


「三越前」駅B6出口

魚河岸の歴史を今に伝える

地下鉄「三越前」駅B6出口を出ると、直ぐ左手にある「乙姫広場」。そこには「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた記念碑と案内板が置かれ、日本橋に魚河岸があった歴史を今に伝えています。


乙姫広場 ▼東京都中央区日本橋室町1丁目8番

アクセス

  • 半蔵門線・銀座線「三越前」駅B6出口直ぐ
  • 銀座線・東西線・都営浅草線「日本橋」駅B12出口徒歩5分
  • JR「東京」駅日本橋口徒歩10分

日本橋魚河岸の歴史

はじまり

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。(後略)
引用:日本橋魚河岸跡案内板(中央区教育委員会)

一日に千両の大金が動いた魚河岸

魚屋の屋台小屋が並ぶ魚河岸には、水運を利用して各地から沢山の魚介類が集められ、大変な賑わいを見せていました。大きく発展した魚河岸は一日に千両の取引があるといわれ、魚河岸の旦那といえば、江戸歌舞伎のスポンサーでもあったようです。


日本橋魚市繁栄図 国安(出典:国立国会図書館所蔵)

日本橋川の桟橋に集まる沢山の平田舟


大正期の日本橋魚河岸の様子(出典:日本橋魚河岸跡案内板)

(前略)江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。(後略)
引用:日本橋魚河岸跡案内板(中央区教育委員会)

移転問題

明治時代に入り、江戸時代から続く施設や販売手法による衛生面の問題、都市開発に必要なインフラ整備などで、当時の東京府から移転を命じられていた魚河岸。しかし、折り合いがつかず、議論は長い年月を費やすこととなり、大正時代に入ってしまいます。

移転に決着をつけた関東大震災

日本橋魚河岸は大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的な被害を受け、その後、芝浦での仮設市場を経て、築地市場へ移転となりました。



日本橋魚河岸(跡)

日本橋川の景観

首都高速道路の高架橋が目につく、現在の日本橋川です。桟橋に横付けされた沢山の平田舟の面影はありませんが、周辺には日本橋魚河岸の名残を感じさせる老舗店が見られます。


日本橋の上から見た現在の日本橋川の景観

日本橋魚河岸の名残を感じさせる老舗店

江戸時代からの歴史と伝統を受け継ぐ老舗店には、鰹節の「にんべん」(1699年創業)、海苔の老舗「山本海苔店」(1849年創業)などがあります。


日本橋から徒歩直ぐの「山本海苔店」(日本橋室町1丁目)

橋のたもとには記念碑と乙姫像

日本橋魚河岸の昔と今

 日本橋魚河岸

江戸の名所といわれた、日本橋魚河岸の賑わいの様子です。


日本橋魚市繁栄図 国安(出典:国立国会図書館)

 記念碑と乙姫像

魚河岸は築地へと移転し、魚屋の屋台小屋が並ぶ景観はありません。日本橋のたもとの「乙姫広場」には、記念碑と乙姫像が置かれています。


浮世絵の場所


記念碑と乙姫像(乙姫広場)

ココを歩いてみて

蘇る日本橋川の景観

首都高速道路の日本橋区間地下化事業では、日本橋川の上空を覆っている首都高速道路の高架橋が撤去され、青空のある日本橋川の景観が復活します。完成までのスケジュールは、2035年にトンネルが開通、2040年までに現在の高架橋が撤去される予定です。

日本橋の老舗店

日本橋の魚河岸は今はありませんが、魚河岸の名残を感じさせる老舗店は今も見られます。近年、再開発により、次々と新しい大規模商業施設が登場して話題となっていますが、江戸時代からの歴史と伝統を受け継ぐ老舗店は、大規模商業施設よりも大きく感じられます。日本橋の老舗店は、日本橋に魚河岸があったことを今に伝えていました。