歌川広重の名所江戸百景の中で「八ツ見のはし」として描かれている一石橋。かつて橋上からの眺望は江戸の名所の一つといわれました。しかし、現在の眺望に、その面影はありません。
※一石橋は架け替え工事のため、一石橋の歩道(東側・西側)は通行止めとなっています。
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一石橋は架け替え工事中
一石橋の歩道は長期間通行止め
首都高速道路日本橋区間地下化事業に合わせ、一石橋の架け替え工事が行われています。そのため、一石橋の歩道(東側・西側)は長期間通行止め。歩行者は迂回となります。架け替え完了は、地下化事業完了の2040年度の予定。
歩行者通行止めの一石橋
MAP 一石橋 ▼東京都中央区八重洲1丁目/中央区日本橋本石町1丁目
アクセス
- 半蔵門線「三越前」駅B2出口から徒歩1分
- JR「東京」駅日本橋口から徒歩5分
一石橋とは
日本橋川に架かる橋
江戸時代は、外堀と日本橋川との分流点に位置していた橋。直ぐ東側には日本橋がありました。
日本橋より一石橋を見る図 歌川国直(出典:国立国会図書館)
橋名の由来
(前略)
北橋詰め近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。(後略)
引用:一石橋の親柱案内板(中央区教育委員会)
名所江戸百景「八ツ見のはし」の舞台
かつて橋上からの眺望は江戸の名所の一つといわれ、自身も含めて八つの橋(一石橋、日本橋、江戸橋、常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、銭瓶橋、道三橋)が見渡せました。歌川広重の名所江戸百景では「八ツ見のはし」として描かれています。
一石橋の歴史
江戸初期に架けられた橋
創架は不明。江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」に描かれています。
明治・大正期
明治6年(1873)に木橋として最後の架け替えを行っています。大正11年(1922)には、鉄筋コンクリート造(花崗岩張り)のモダンな二連アーチ橋に改架され、親柱四基をすえた白亜の橋になりました。
一石橋(出典:一石橋の親柱案内板)
昭和・平成期
昭和・平成の改修工事で鋼鈑桁橋となります。平成9年(1997)の改修工事では、大正11年(1922)に改架された橋本体は全て撤去。その際、花崗岩の親柱一基が残されました。
残された大正11年(1922)の花崗岩の親柱一基は、都内最古のRCアーチ橋の親柱として、平成14年(2002)に中央区民文化財に登録されています。
一石橋 残された花崗岩の親柱(中央区民文化財)
浮世絵で辿る一石橋
名所江戸百景「八ツ見のはし」
江戸の名所の一つといわれた一石橋からの景観です。手前に見える橋の欄干の一部が一石橋。中央に道三堀に架かる銭瓶橋と道三橋、その奥には江戸城と富士山が描かれています。
名所江戸百景「八ツ見のはし」
歌川広重(出典:国立国会図書館)
江戸の名所の面影なし
浮世絵と同じ方向には、コンクリートの壁と大きな建物。そして、川の上を覆っているのは首都高速道路です。
一石橋の橋上から(浮世絵と同じ方向)
一石橋迷子しらせ石標
東京都指定有形文化財
一石橋南詰西側の親柱の直ぐ横には、江戸時代からの「一石橋迷子しらせ石標」が置かれています。これは迷子探しのための告知石碑です。
一石橋迷子しらせ石標 ▼中央区八重洲1丁目11番先
ココを歩いてみて
一石橋の歩道は通行止め(長期間)
一石橋は架け替え工事のため、歩行者の通行はできません。通行止めは長期間にわたります。
★MAP 一石橋
Googleマップ